桶川町緑町

発見日:2022年9月10日

発見場所:桶川市若宮一丁目付近

これまで埼玉県内で古い地名を探してきてわかってきたのは、駅前などの比較的栄えている地域において、住居表示や町名地番変更が行われる前の正式な行政地名は大字○○だが、実際には多くの地域で通称町名が使われていたらしいということだ。そのような通称町名は本来は自治会などの地域コミュニティの区域を指すものであったが、正式地名の代わりに表札に通称町名を記載するといったように、住所表記としても用いられていたようだ。

ちなみに通称町名の下には通常は地番が記載されることが多く、その地番は正式地名の大字○○の地番に対応しているようだ。まれに丁目がついた通称町名も見かけるが、同様にその下には大字の地番が付けられている。

通称町名が使われていた地域の多くは、現在も自治会名などにその名前が残っている。しかし、桶川市の中心部では基本的に現町名を冠した自治会名が用いられており、かつての通称町名の痕跡がほとんど残っていない。なので、桶川市の前身である桶川町で通称町名が使われていたなどとは考えてもいなかった。それだけに今回の旧地名を発見したときは不意を突かれた感じがした。

桶川町の通称町名についてはこの記事に詳しく紹介されている。これによると、本町、幸町、栄町、緑町、立花町、住吉町、若山町、相生町若松町があったらしい。なお、記事には小字と書かれているが、実際は小字ではないので注意して欲しい。このうち、相生町は現在もバス停として残っている。また、記事にも書かれているとおり、桶川祇園祭りという祭りでもいくつかの町名が散見されるようだ。

緑町については、今は全く痕跡が残っていないようだが、かつては若宮東公園の北に町谷緑町集会所というのがあったようだ。町谷と付いていることから、大字桶川ではなく大字町谷の区域であったことがわかる。

春日部市東町

発見日:2022年4月30日

発見場所:春日部市粕壁東五丁目付近

最近は暑くて全然探索に出られてないのだが、前に見つけたものをほったらかしにしてたので、この機会に紹介したい。

前回紹介したのは蕨市の東町だったが、今回は春日部市の東町である。ただし、蕨市の東町は正式な行政地名だったのに対し、春日部市の東町は通称町名である。

1963年に人文社から発行された埼玉県市街地図集には、各市の地名総覧に行政地名だけでなく通称地名も記載されている。春日部市の(大字)粕壁のところを見ると、上町、仲町、本町、一宮町、東町、大砂、川久保、元新宿、三枚橋、内谷、大池、元町、富士見町、春日町、内出、旭町、陣屋、宮本町、幸町、八木崎、浜川戸の名前が載っている。読みもルビがふられていて、東町は「あずまちょう」と読むようだ。ちなみに蕨市の東町の読みも「あずまちょう」である。

今回発見したものは「粕壁東町」と表記されていたが、これは大字粕壁にある東町という意味だろうか。そういえば、以前「大字粕壁大池」というのも見かけたことがある。この大池も(小字ではなく)通称町名である。

東町の区域はかつては粕壁宿の東端の新々田と呼ばれる区域に含まれていた。東町町会のHPには、

昭和20年代初期旧新々田町会の一部大下(おおしも)町として旧日光街道に沿って町が営まれていましたが、新々田から一宮町町会に進化した時位置が「東」になる為、東町として発足しました。

と説明が書かれている。

粕壁の通称町名は明治以降何度も再編されてきたようだが、上に挙げた通称町名は陣屋以外は現在も町内会として残っている。陣屋も2018年までは残っていたようなので、それまでは丸々残っていたことになる。町内会も古い地名の保存に一役買っているので、ぜひ末永く残していって欲しいものである。

 

蕨市東町一丁目

発見日:2022年3月20日

発見場所:蕨市塚越六丁目付近

ここ数か月、公私ともに忙しいという以外ない感じだったのだが、そうしているうちにまた90日更新なしで広告が載るようになってしまった。読者の方々にはご迷惑をおかけする。

さて先日、当ブログのコメント欄に蕨市東町の看板が現存するという情報をいただいた。5年以上も前の記事にコメントがつくとは、細々とでも長く続けてきた甲斐があったというものである。

蕨市の前身である蕨町は大字蕨と大字塚越からなっていたが、それぞれの区域では通称町名が使われていた。大字蕨のほうは、旭町、土橋町、御殿町、仲上町、須賀町、仲町大門町、上町、水深町、法華田町(春日町)、三和町、下蕨、大堺中才といった町名が使われていた。大字塚越のほうはあまり情報がないのだが、東町、忠町、西仲町、丁張町などがあったようだ。

しかし、今回発見したのは通称町名ではなく、正真正銘の行政地名である。大字塚越の大半と大字蕨の一部は1958年(昭和33年)に塚越末広町、1964年(昭和39年)に東町一~三丁目、丁張町一・二丁目になった。しかし、1966年(昭和41年)には蕨市全域に住居表示が実施され、これらの町は塚越一~七丁目となった。

なぜ、いったん設置した町をすぐあとに再編成してしまったのだろうか。おそらく最初の町の設置は区画整理に伴うもので、増大する住宅需要に対応するために、もともとはあまり栄えていなかった線路の東側の区域を開発したのではないかと思われる。

一方、1962年(昭和37年)に住居表示に関する法律が定められ、特に市街地において住所をわかりやすくすることが国策として推奨されるようになった。蕨市は埼玉県の中では住居表示実施が早いのだが、東京のベッドタウンとして住宅が多く作られ、全国で最も人口密度の高い市町村となったこともあるだけに、住居表示の早急な導入が望まれたのだろう。一方で、かつては多彩な通称町名が使われていた大字蕨の区域を中央・北町・南町・錦町という無味乾燥な町名に置き換えてしまったことは、今でも批判の声が聞かれる。

さて長くなってしまったが、その1964~1966年の間にのみ存在した東町が、蕨市立東中学校近くの社宅の看板に残っているというのである。早速現地に行ってみたが、それらしいものは見つからない。そうやってうろうろしているうちに見つけたのが、今回紹介する東町一丁目の表札である。かなり良い状態で残っており、文字も鮮明に読める。

その後、看板のほうも発見したのだが(こちらは東町二丁目)、なんと上から白塗りされていた。情報提供してくださった方は12年前に発見したとのことなので、その後に塗られてしまったのだろか。残念ではあるが、代わりに良い状態の表札が見つかったので良いことにする。

しかし、以前私が塚越一~七丁目の区域を調べたときは、全域を探し尽くしたつもりだった。それがこのように看板に加えて表札も見つかるとは、まったくあてにならない。こうなると塚越末広町や丁張町についてもそのうち見つかるのではないかという気がしてきた。引き続きの情報提供を期待したい。

 

大宮市大字深作字原

 

 

発見日:2021年2月11日

発見場所:さいたま市見沼区春岡二丁目付近

今回の旧地名の発見場所である春岡(一~三丁目)は2009年(平成21年)に成立しており、さいたま市になってからできた新しい町である。旧春岡村から付けられた町名であるが、近くにある春野と混同しやすい。

ある町がかつてのどの大字・小字に対応するのかを調べる際、埼玉県報に載っている告示が参考になる。住居表示の場合はおおまかな地図しか載っておらず対応がわからないこともあるのだが、町名地番変更の場合は小字名つきで対応が記載されており確実である。

しかし、近年ではそのような情報が県報に載らなくなっている。地方自治法の改正に伴い都道府県から市町村への事務・権限の移譲が全国的に行われたらしく、町・字の区域・名称の変更等の事務は市町村が行うことになったらしい。

一方で、そのような情報は最近では市町村のホームページに載ることが多くなっている。詳細な情報を載せてくれている場合もあれば、ほとんど情報がない場合もあり、自治体によって差が大きい。しかし、県報に情報が載らなくなった今、こういった市町村による情報提供がほぼ唯一の頼りである。

春岡一~三丁目の旧新対照表も市のホームページに載ってはいるのだが、残念ながら小字が記載されていない。平成23年以降はかなり詳細な情報を載せるようになってるので、たまたまホームページでの情報公開の過渡期にあたってしまったのかもしれない。

 

大井町大字亀久保字西原

発見日:2021年9月26日

発見場所:ふじみ野市大井武蔵野付近

今回発見した旧地名であるが、あやうく旧地名であることに気づかずに通り過ぎてしまうところだった。大字亀久保字西原、字武蔵野ほかは1972年に大字武蔵野となり、大井町上福岡市が合併してふじみ野市になった際に大井武蔵野になった。新しく大字が作られた区域で旧地名を発見したのはこれが初めてではないだろうか。

通常、土地改良や区画整理などに伴って従来の大字・小字が整理される場合、新しい町になるパターンが多い。また、農村部などでは町を設置せずに、大字・小字の区域変更で済ませてしまったり、新しい小字を設置したりする場合もある。

一方、新しい大字が作られるケースはそこまで多くはない。戦後まもない時期に開拓された土地に新しい大字が設置された例や、市町村の境界変更に伴う設置例などはあるが、大字武蔵野はどちらにもあてはまらない。ちなみに大井町では大字武蔵野と同時に大字西鶴ヶ岡も設置している。

現在はふじみ野市大井武蔵野と「大字」表記がなくなっているが、これはふじみ野市成立時に大字表記を止めたためである。平成の大合併でできた市町村によく見られることで、春日部市鴻巣市久喜市熊谷市加須市などでもそうなっている。

武蔵野の前に「大井」が付けられたのは合併相手である上福岡市にも武蔵野があったからである。上福岡市のほうは福岡武蔵野となったが、こちらは大字ではなく町名であり、住居表示も実施されている。なんだかややこしい。

大字亀久保字西原は現存していないが、西原小学校やバス停「西原住宅入口」があり、西原の名前は今でもしっかり残っている。

川越市大字笠幡字東水久保

発見日:2021年6月27日

発見場所:川越市かすみ野一丁目付近

今回の旧地名を発見したかすみ野は、JR笠幡駅を最寄り駅とする住宅団地がある区域である。川越駅新狭山駅からバスが出ており、交通の便は意外と良い。西に霞ヶ関カンツリー倶楽部という由緒あるゴルフ場が隣接している。

かすみ野一~三丁目が成立したのは、2004年(平成16年)と比較的新しい。それ以前の住所は、大字笠幡、大字安比奈新田、大字柏原となっていたが、このうち大字柏原は1970年(昭和45年)に狭山市から一部が編入したものである。その後、川越市大字柏原は30年以上存在していたが、かすみ野の成立によって消滅した。

川越市にはこのように他市町から編入した区域がそのまま地名変更されずに残っていたケースがいくつかある。1979年に鶴ヶ島町から編入した大字鶴ヶ丘、大字太田ヶ谷は、1986年に吉田新町、川鶴、かわつる三芳野になった。1971年に鶴ヶ島町から編入した大字五味ヶ谷は、2004年に広谷新町になった。1965年に狭山市から編入した大字青柳は今も一部現存している。

東水久保という小字名だが、かすみ野のほぼ全域が大字笠幡字東水久保だった。その北東には字水久保があり、西方の霞ヶ関カンツリー倶楽部の敷地内には字北水久保、南水久保がある。なんだか方角がでたらめな気がするが、小字ではよくあることなので気にしない。かすみ野の南部には大字柏原字元水久保があった。かすみ野周辺一帯では広域地名として水久保が使われており、水久保第一~七公園がある。

 

久喜町大字久喜新字柳島

発見日:2021年4月25日

発見場所:久喜市南二丁目付近

前回紹介した通称町名の発見場所からそれほど離れてはいないが、大字小字の形の旧地名も発見した。

大字久喜新の町村制施行前の名称は久喜新町だった。大字久喜本の前身である久喜本町の中心が現在の提燈祭り通り沿いであるのに対し、それとほぼ直交する愛宕通り沿いが久喜新町の中心だった。

久喜本町と久喜新町、さらにはその周辺の古久喜村と野久喜村の区域も含めてかつては久喜町と称されていたが、いつしか分立したそうだ。現在の大字古久喜と大字野久喜の区域を見ると、飛び地だらけでモザイク状に入り混じっている。こういった交錯は江戸時代における頻繁な大名の領地替えによるものといわれている。

そして大字久喜本と大字久喜新の区域も、今では住居表示の実施によって目立たなくなってはいるが、かつては区域が交錯していた。さらには大字古久喜、野久喜の区域もその中に入り混じっていた。こちらの資料には久喜本町・久喜新町・野久喜村・古久喜村入会の図というのが載っており、もしかしたら、区域の交錯は領地替えだけでなく、入会によるものもあったかもしれない。

今回発見した字柳島も、元々は大字久喜新だけでなく大字久喜本、古久喜、野久喜のすべてに存在していた。しかし、飛び地の組み換えや耕地整理などによって、戦後には大字久喜新のみの小字になったようだ。そしてそれもまた住居表示の実施により新しい町名となった。

このように、江戸時代には錯綜した領地だった区域も、現在に至るまでに徐々に整理されてきている。地名を昔のまま残して欲しいという意見もあるが、このような変遷を追うこともまた地名の楽しみ方の一つではないかと思う。