朝霞市大字台字中笹原

発見日:2021年3月11日

発見場所:朝霞市根岸台七丁目付近

 「○○台」という地名は全国で見られ、新興住宅地において町のイメージを良くするために名づけられたものが多い。今回の旧地名を発見した根岸台も一見そのような地名に見えるが、実際は大字根岸と大字台の区域が合わさってできた町に付けられた合成地名である。

大字根岸と大字台の区域は隣接していたというよりは、モザイク状に入り混じっていた。大字根岸には30個、大字台には31個の小字があったが、大字根岸にあったすべての小字は大字台にも存在した(微妙に表記が異なるものもある)。

大字の境界が複雑だったり、飛び地が多くあったりすることは珍しくないが、このように二つの大字の範囲がほとんど一致しているものは珍しい。他では旧大宮市の大字西内野と大字上内野が同じような感じである。また、これらほどではないが、上尾市の大字上尾宿と大字上尾村、久喜市の大字古久喜と大字野久喜などもかなり範囲が重複している。

大字台の前身である台村は、大字根岸の前身である根岸村から分村したものである。上述の他の例も同じような感じで、範囲が大きくかぶっているのは元は同じ村だった名残といえる。しかし、なぜ分村の際に区域を大きく分割するのではなく、村の中で細かく分けるのだろうか。

上尾市史第八巻「別編1地誌」には、上尾宿・上尾村・上尾下村の関係について、元は一村であったが、所領の関係で分村したとある。江戸時代には大名に対する恩賞として土地の支配権が与えられていたが、その調整のために村を分割してそれぞれ異なる領主を置いたということだと思われる。

ツイッターで紹介されていた「村の日本近代史」という書籍では、「石高制の帳尻合わせ」のために村が切り刻まれたという表現が頻繁に出てくる。論功行賞に基づく加増や貢租収納の均分化などのために、給地の錯綜や飛び地が増えていったらしい。現代の視点から見ると不思議な村の複雑な境界や飛び地もそのような事情から生まれたものだったのだ。

今は大字根岸・大字台ともにわずかな区域しか残っていないが、昔の地図を見ると大字根岸と大字台は合わせて「台・根岸」として扱われており、どこが大字根岸でどこが大字台だったのかは明確でない。しかし、ブルーマップで現在の根岸台の地番を調べると、大字根岸だった区域と大字台だった区域でそれぞれ近い地番がクラスタを形成しており、おおよその境界が推測できる。

江戸時代の支配構造が現代においても地番を通じて垣間見れるというのはなかなか感慨深い。住居表示による地名破壊などが問題視されているが、意外と古いものが残っているところもあって面白い。