蕨市東町一丁目

発見日:2022年3月20日

発見場所:蕨市塚越六丁目付近

ここ数か月、公私ともに忙しいという以外ない感じだったのだが、そうしているうちにまた90日更新なしで広告が載るようになってしまった。読者の方々にはご迷惑をおかけする。

さて先日、当ブログのコメント欄に蕨市東町の看板が現存するという情報をいただいた。5年以上も前の記事にコメントがつくとは、細々とでも長く続けてきた甲斐があったというものである。

蕨市の前身である蕨町は大字蕨と大字塚越からなっていたが、それぞれの区域では通称町名が使われていた。大字蕨のほうは、旭町、土橋町、御殿町、仲上町、須賀町、仲町大門町、上町、水深町、法華田町(春日町)、三和町、下蕨、大堺中才といった町名が使われていた。大字塚越のほうはあまり情報がないのだが、東町、忠町、西仲町、丁張町などがあったようだ。

しかし、今回発見したのは通称町名ではなく、正真正銘の行政地名である。大字塚越の大半と大字蕨の一部は1958年(昭和33年)に塚越末広町、1964年(昭和39年)に東町一~三丁目、丁張町一・二丁目になった。しかし、1966年(昭和41年)には蕨市全域に住居表示が実施され、これらの町は塚越一~七丁目となった。

なぜ、いったん設置した町をすぐあとに再編成してしまったのだろうか。おそらく最初の町の設置は区画整理に伴うもので、増大する住宅需要に対応するために、もともとはあまり栄えていなかった線路の東側の区域を開発したのではないかと思われる。

一方、1962年(昭和37年)に住居表示に関する法律が定められ、特に市街地において住所をわかりやすくすることが国策として推奨されるようになった。蕨市は埼玉県の中では住居表示実施が早いのだが、東京のベッドタウンとして住宅が多く作られ、全国で最も人口密度の高い市町村となったこともあるだけに、住居表示の早急な導入が望まれたのだろう。一方で、かつては多彩な通称町名が使われていた大字蕨の区域を中央・北町・南町・錦町という無味乾燥な町名に置き換えてしまったことは、今でも批判の声が聞かれる。

さて長くなってしまったが、その1964~1966年の間にのみ存在した東町が、蕨市立東中学校近くの社宅の看板に残っているというのである。早速現地に行ってみたが、それらしいものは見つからない。そうやってうろうろしているうちに見つけたのが、今回紹介する東町一丁目の表札である。かなり良い状態で残っており、文字も鮮明に読める。

その後、看板のほうも発見したのだが(こちらは東町二丁目)、なんと上から白塗りされていた。情報提供してくださった方は12年前に発見したとのことなので、その後に塗られてしまったのだろか。残念ではあるが、代わりに良い状態の表札が見つかったので良いことにする。

しかし、以前私が塚越一~七丁目の区域を調べたときは、全域を探し尽くしたつもりだった。それがこのように看板に加えて表札も見つかるとは、まったくあてにならない。こうなると塚越末広町や丁張町についてもそのうち見つかるのではないかという気がしてきた。引き続きの情報提供を期待したい。