久喜町新二

発見日:2021年4月25日

発見場所:久喜市南三丁目付近

今回発見したこの旧地名を最初に見たとき、一瞬固まった。久喜市の前身である久喜町の表記もそれなりにインパクトはあるが、久喜市の成立は1971年(昭和46年)と結構遅めなので、久喜町の表記は実はそれほど珍しくはない。

驚いたのは「新二」のほうである。これは何かの略だろうか?久喜の中心部は住居表示が実施されるまでは大字久喜本・大字久喜新といった地名だった。新二の新は久喜新の新だろうか?大字久喜新には新町という小字があった。これは江戸期における久喜新町の中心区域にあたる。つまり大字久喜新の新と字新町の新は由来が同じということになる。

新二の二のほうはどうか。これは二丁目の二と思われるが、 公式な字名では新町に丁目は付かない。しかし、かつての久喜の中心部は、字よりも細かい単位で地区に分かれていたようだ。

久喜には提燈祭りという有名なイベントがある。本壱・本二・本三・新一(志ん一)・新二(志ん二)・仲町・東一の各地区からそれぞれ山車が繰り出されて町中を回るそうだ。ここに出てくる新二が今回見つけた新二と思われる。

現在、上記の地区がすべて町内会として存続している訳ではなさそうだ。しかし、新二については新二商店会や新二会館などが現存しており、今も現役といった感じである。今回新二が通称町名として使われているのを見つけたのも、それだけ町内会の結びつきが強かった表れかもしれない。

 

鴻巣市大字上生出塚字保井

発見日:2020年5月24日

発見場所:鴻巣市生出塚一丁目付近

今回の旧地名に含まれる生出塚の読みは「おいねづか」である。まず一見では読めず、埼玉県の難読地名の一つとしてしばしば取り上げられる。普通に読めば「おいでづか」になると思うが、なぜ「おいねづか」なのだろうか。ちなみに生出塚は名字としても存在するが、読みは「おいでづか」である。

一説によると、この地に小杵塚(おきねづか)という古墳があり、のちに「おいねづか」になったといわれている。しかし、なぜ「おいね」に「生出」の字を当てたのかはよくわからない。

生出塚は上生出塚と下生出塚に分かれているが、同じ村から分村したようだ。大字上生出塚と大字下生出塚の各一部は1960年代に住居表示が実施され、本町、東、宮地、天神などとなったが、それ以外の区域は長らく大字のままだった。しかし、1989年(平成元年)に残りの区域にも住居表示が実施され、中央、生出塚、ひばり野となった。現在は上生出塚・下生出塚ともにごく一部が残るのみである。

ところが、そのごくわずかに残る残存区域に下生出塚の地名標識が設置されている。しかも同じ場所には上生出塚の交差点標識もあるという豪華ぶりである。上生出塚・下生出塚の名前を忘れないで欲しいという思いが感じられる。

(今気づいたが、上生出塚には Kamioinezuka、下生出塚には Shimooidezuka とローマ字が添えられている。戦前の行政文書でも「ヲイデツカ」とルビが振られていたり、とかく混乱されやすい地名のようだ)

 

鴻巣市元市町

発見日:2021年6月20日

発見場所:鴻巣市富士見町付近

前回も元市町を紹介したが、今回見つけたのは電力プレートではなくフル住所表記の表札である。そして発見場所は古い町並みが残る中山道沿いの区域ではなく、なんと線路の反対側に位置する住宅街である富士見町である。

大字鴻巣だった区域はそのほとんどがJR高崎線の線路の東側に位置しているが、今回の旧地名を発見した富士見町と、北方にある加美三丁目の区域だけは線路の西側にある。大字鴻巣(およびその前身の鴻巣宿)は鉄道が通る前から存在していたので、のちに区域が線路で分断されたとしてもおかしくはない。

また、通称町名である元市町も明治時代から存在していたようなので、やはり線路で分断されてもおかしくはない。しかし、それが住居表示が実施される1960年代までは残っていたということになる。もしかしたら現在も元市町町内会の区域は線路の東西にまたがっているのかもしれないが、確証はない。

なお、住居表示や町名変更がなされたあとも、一つの町(丁目)が線路をまたいで位置しているケースはときどきある。たとえばさいたま市浦和区常盤三丁目は区域の一部が線路の東側に少しだけはみ出している。はみだしている区域が狭い場合は、別の町名を付けるわけにもいかず、かといって他の町に組み入れられるのは町内会のつながりや地域の歴史もあって抵抗があるということだろう。地名や町の境界というのは行政の都合で勝手に決められているイメージがあるが、案外デリケートなところもあるのだ。

 

鴻巣市元市町

発見日:2020年5月24日

発見場所:鴻巣市本町八丁目付近

鴻巣市の中心部は1965年(昭和40年)以降に住居表示が実施されるまでは大字鴻巣だった。しかし、埼玉の宿場町にありがちなことだが、主に中山道沿いの区域においては本一町、宮本町、仲町、富永町、石橋町などの通称町名が使われていた。

そして今回見つけたのも通称町名として使われていた元市町である。おなじみの電力プレートであるが、春日部市本町川越市志義町鍛冶町と同様に正式な地名ではなく通称町名が記載されている。

元市町の範囲はおおよそ現在の本町七・八丁目にあたるようだ。大字鴻巣には宿場の中心部を中山道を境に東西に分けた字東側と字西側が存在していた。元市町はこれらに加えて南に隣接する字鞠子の区域も含まれている。

鴻巣市では地域振興の一環なのか、住居表示の街区表示板に地名の変遷が書かれているものが設置されていることがある。本町七・八丁目の街区表示板には、鴻巣宿の門前・大下町が明治時代に元市町となり、大字鴻巣になったあとも慣例使用されたというような説明が書かれている。

ちなみに鴻巣市には住居表示の街区符号に旧町名や旧小字の名前を採用している場所がある。今回の旧町名を発見した本町八丁目には「鞠子」番があり、街区表示板も設置されている。

 

越谷市大字蒲生字西

発見日:2020年6月21日

発見場所:越谷市南越谷五丁目付近

今回発見した旧地名である大字蒲生字西は、1954年(昭和29年)に新設された小字である。四ヶ村用水耕地整理により、当時の蒲生村の全域(大字蒲生、大字瓦曽根、大字登戸)とその周辺において、小字区域と名称の大幅な変更が行われた。これにより、「へらなし」「どぶ」「又左衛門」などの田舎臭い小字は姿を消し、代わりに「明徳」「天領」「富士」などのキラキラ小字が誕生した。

ところで、今回の旧地名を発見した南越谷五丁目は住居表示は実施されておらず、町名地番変更によって成立している。そしてある一角だけ他と比べて地番が大きい場所がある。しかし、地図によっては普通の地番が付けられていることもあったりする。当時の広報によると当該区域は南越谷五丁目から外されており、しばらくは大字蒲生のままだったようだ。後に南越谷五丁目に編入されたが、地番は大字蒲生のときのものがそのまま使われているのだろう。

しかし地図によって地番が異なるというのは、当初はこうなる予定だった案が入り込んでしまったのだろうか。こういう世界もありえたというパラレルワールドを垣間見たかのようである。

和光市大字下新倉字庚塚

発見日:2021年3月28日

発見場所:和光市下新倉二丁目付近

駐車場の看板から。下新倉一~六丁目が成立したのは2004年(平成16年)のことなので、それ以前に設置された看板だろうか。以前見つけた同種の看板は1997年(平成9年)以前の旧地名が書かれていたので、そのくらい前からあったとしてもおかしくない。

小字名の庚塚(かのえづか)であるが、大字新倉にも字庚塚があった。しかし、けっこう距離が離れており、直接の関係はないと思われる。庚塚という地名は全国に存在するが、庚申塚を由来とする説や、「金鋳塚」から来ているという説がある。

ところで下新倉一~六丁目が成立した同年には白子四丁目も成立している。しかし、白子四丁目の区域はすべて大字下新倉から成立しており、大字白子だった区域は含まれていない。町村制施行の際に下新倉村と白子村が合併して新たに白子村となっているので、まったくの無関係ではないのだろうが、なんかまぎらわしい。ちなみに1970年(昭和45年)に成立した白子三丁目にも大字下新倉だった区域が結構含まれている。

 

朝霞市大字台字中笹原

発見日:2021年3月11日

発見場所:朝霞市根岸台七丁目付近

 「○○台」という地名は全国で見られ、新興住宅地において町のイメージを良くするために名づけられたものが多い。今回の旧地名を発見した根岸台も一見そのような地名に見えるが、実際は大字根岸と大字台の区域が合わさってできた町に付けられた合成地名である。

大字根岸と大字台の区域は隣接していたというよりは、モザイク状に入り混じっていた。大字根岸には30個、大字台には31個の小字があったが、大字根岸にあったすべての小字は大字台にも存在した(微妙に表記が異なるものもある)。

大字の境界が複雑だったり、飛び地が多くあったりすることは珍しくないが、このように二つの大字の範囲がほとんど一致しているものは珍しい。他では旧大宮市の大字西内野と大字上内野が同じような感じである。また、これらほどではないが、上尾市の大字上尾宿と大字上尾村、久喜市の大字古久喜と大字野久喜などもかなり範囲が重複している。

大字台の前身である台村は、大字根岸の前身である根岸村から分村したものである。上述の他の例も同じような感じで、範囲が大きくかぶっているのは元は同じ村だった名残といえる。しかし、なぜ分村の際に区域を大きく分割するのではなく、村の中で細かく分けるのだろうか。

上尾市史第八巻「別編1地誌」には、上尾宿・上尾村・上尾下村の関係について、元は一村であったが、所領の関係で分村したとある。江戸時代には大名に対する恩賞として土地の支配権が与えられていたが、その調整のために村を分割してそれぞれ異なる領主を置いたということだと思われる。

ツイッターで紹介されていた「村の日本近代史」という書籍では、「石高制の帳尻合わせ」のために村が切り刻まれたという表現が頻繁に出てくる。論功行賞に基づく加増や貢租収納の均分化などのために、給地の錯綜や飛び地が増えていったらしい。現代の視点から見ると不思議な村の複雑な境界や飛び地もそのような事情から生まれたものだったのだ。

今は大字根岸・大字台ともにわずかな区域しか残っていないが、昔の地図を見ると大字根岸と大字台は合わせて「台・根岸」として扱われており、どこが大字根岸でどこが大字台だったのかは明確でない。しかし、ブルーマップで現在の根岸台の地番を調べると、大字根岸だった区域と大字台だった区域でそれぞれ近い地番がクラスタを形成しており、おおよその境界が推測できる。

江戸時代の支配構造が現代においても地番を通じて垣間見れるというのはなかなか感慨深い。住居表示による地名破壊などが問題視されているが、意外と古いものが残っているところもあって面白い。