岩槻市大字岩槻字西原一

発見日:2020年9月22日

発見場所:さいたま市岩槻区西原台一丁目付近

字西原ではない。字西原一(いち)である。後に地番が続くので、見た人の多くはただの横棒だと思ってしまうのではないか。

大字岩槻にはこのような数字付きの小字が存在し、消滅したものも含めると府内一・府内二・西原一・西原二・西原三の5つがある。かつての記事でこれらの数字は最近になって付けられたものではないかと予想しているが、この頃の私はまだ無知だった。実際は地租改正のときからこれらの数字付きの小字はずっと存在していたが、住所の表記では省略されることが多かっただけだった。そんな中で数字付きの小字が付いた住所表記の現物はなかなかレアといえる。

そもそもこのような数字付きの小字はどのようにして生まれたのであろうか。角川日本地名大辞典の小字一覧には岩槻町の小字として「東原地、府内、西原地」のみが載っているが、これは地租改正前のものか後のものか微妙な感じである。岩槻町の成立は明治7年と遅いので、地租改正が完了するまでの暫定的な小字として記載されたのかもしれない。岩槻九町と二新田が合併して岩槻町が成立したとき、かつての町名がそのまま小字名になったという記述も見かけるが、大正期の文献でも旧町名を小字として表記している例があるので、いわゆる通称地名のような扱いではないかと思っている。

地租改正の施行においては、字単位にまとめられた「字限図」という地図が作られた。そのときに、範囲が広くて一枚にまとめきれなかったものを分割し、一・二といった番号を付けたのではないかと思われる。このとき付けられた番号は、もしかしたら当初はただの地図の分割番号だったのかもしれないが、その後、土地台帳にも転記されて小字の一部となったと思われる。

別の例として、「大和町の地名研究」という文献には、現和光市に位置した上新倉村の明治9年の切絵図(字限図を指すと思われる)から取られた字名一覧表があるが、その中に広沢原一・二・三・四・五・六というのがある。しかし、のちの大字新倉では字広沢原という一つの小字にまとまっている。これは、字限図に書かれた番号が小字の一部とはならなかった例であろう。

ところで大字岩槻には字西原一~三のほかに、字西原も存在する。これはかつての平林寺村の飛び地が編入したもので、登記情報では「大字岩槻(元平林寺分)字西原」のように書かれる。逆に岩槻町の飛び地が他町村に編入したものもあり、「大字加倉西原壱飛地(元岩槻分)」「大字平林寺(元岩槻分)西原三飛地」などという表記になっている。

不可解なものとしては、「大字岩槻(元平林寺分)字西原三というのがある。これだと、平林寺村に字西原三があったことになるが、そのような事実はないはずである。区画整理に伴って大字岩槻(元平林寺分)字西原が大字岩槻字西原三に編入した際に「(元平林寺分)」を取り忘れたとか、いろいろ可能性を考えてみたが、どれも決定的な証拠に欠ける。地名の謎は追及すればするほど闇が深い。