さいたま市大字浦和塚本

発見日:2020年5月1日

発見場所:さいたま市桜区大字塚本付近

以前紹介した浦和仲町と同じく、大字浦和塚本は浦和市さいたま市になったときに同名の衝突を避けるために大字塚本から名称変更されたが、その二年後に区が設置されて衝突が解消されたために大字塚本に戻された。

仲町は旧浦和市と旧大宮市でたまたま名前がかぶっていたのだが、大字塚本はもともとは同じ塚本村が分かれたものである。塚本村は明治の町村制施行で大久保村の大字塚本になったが、昭和初期に荒川の流路変更が行われ対岸に移った区域が馬宮村に編入された。戦後になって大久保村、馬宮村がそれぞれ浦和市、大宮市に編入し、それぞれに大字塚本が存在することになった。

ところで現在の地図で見ると、さいたま市桜区大字塚本(旧浦和市大字塚本)と西区大字塚本(旧大宮市大字塚本)の間はけっこう離れており、間に大字宿や大字下大久保が挟まっている。したがって、馬宮村に編入された区域は荒川の流路変更で分断される前から飛び地だったかのように見える。

しかし実は不動産登記情報を調べると、地図上で大字宿となっている区域には大字塚本や大字五関が点在しており、大字下大久保となっている川沿いの区域に至っては実際はほとんどが大字塚本であることが判明した。したがって、馬宮村に編入された区域はもともとは地続きだったと考えるのが妥当と思われる。

さらにややこしい話をすると、もともとの塚本村は北西に飛び地があった。しかし、町村制施行後に他町村の飛び地が大字塚本に編入したため地続きとなったようだ。このような編入情報は通常の地図には表記されないが、登記情報では元○○分として記載される。大字塚本の場合、植水村から編入された元中野林分、元三条町分、元水判土分、元島根分、元植田谷本村分、馬宮村から編入された元二ッ宮分、元飯田新田分、元本村新田分、与野町から編入された元円阿弥分、元八王子分がある。