浦和市高砂町四丁目


発見日:‎2016年12月28日
発見場所:さいたま市浦和区高砂四丁目付近

前回から始まった「旧浦和市の旧町名を辿る」企画、続いて紹介するのは浦和駅の西部および南東部に位置していた高砂町である。一丁目から五丁目まであり、一〜四丁目は駅の西側、五丁目は駅の東側にあった。住居表示実施により一〜四丁目はそのまま高砂一〜四丁目となったが、五丁目は東高砂町となった。

現在の高砂一〜三丁目は商業施設やビルが多く、旧町名を探すには不向きな場所である。東高砂町には古い家が多く、見つけられそうな感じがしたが見つからなった。結局、駅からもっとも遠い高砂四丁目のとある施設内に設置されていた記念碑のようなものに旧町名が書かれているのを発見した。

さて前回、常盤町仲町高砂町、岸町などの町名は市制施行まで公式には存在せず、通称町名として用いられていたと書いた。ところが実は浦和町にはこれらの町名の代わりに常盤区、仲区、高砂区、岸区という区が設置されていたのである。

ここでいう区は東京都や政令指定都市に設置されている区とは異なるものである。1889年(明治21年)に施行された町村制の法律の条文の中に「第68条 町村は処務便宜の為区を画し区長及其の代理者1人を置くことを得・・・」とあり、この規定に則って設置されたのが上記の浦和町の区である。ちなみに区制度についてはほかにも様々な形態があり、このサイトが詳しく取り上げている。

この町村制に基づいた区であるが、浦和町以外にも川越町、所沢町、大井村などにも設置されていた。実質的にはこれらの区が町の代わりをしていたといえる。ただし、これらの区はあくまで自治体が行政を円滑に行うために設置したものであり、住所として使うためのものではなかった。

では当時の浦和町民は実際はどのように住所を表記していたのだろうか。当時の名簿などを見ると、正式な表記である「浦和町+地番」「浦和町+小字+地番」のほかに、「浦和町+通称町名+地番」「浦和町+区名+地番」などさまざまな表記が出てくる。また、通りや施設の名前で場所を表している例などもある。地番についてもイロハや甲乙丙が混じったものなどがありさまざまである。また、前回紹介した浦和総覧には「番地も地番と戸番と二様になってる」から不便である旨が書かれている。昔はいろいろと大変だったようだ。