岩槻市大字岩槻字府内


発見日:‎2018年5月2日
発見場所:さいたま市岩槻区府内一丁目付近

さいたま市の中ではとかく忘れられやすい岩槻区であるが、本ブログでも長い間取り上げて来なかった。しかしこのたび満を持して取り上げることにする。

岩槻は古くから岩槻城の城下町として、また江戸時代には日光御成道の宿場町としても栄えた町である。当時は岩槻城下には市宿町、新町、横町、久保宿町、渋江町、田中町、富士宿町、林道町、新曲輪町といった町があり、岩槻九町と呼ばれていた。

これらの町名は現在は残っておらず、全国で旧町名の価値を見直す動きが高まる中、岩槻でも旧町名や通り名が書かれた石碑やプレートの設置が行われている。そのこと自体は大変結構なことなのだが、旧町名が失われたのを住居表示のせいだとする言説をよく見かける。しかし本当に旧町名を無くしたのは住居表示なのだろうか。本記事ではその謎に迫りたい。

明治に入り、岩槻九町と二新田が合併して岩槻町となった。このとき元々の町名は岩槻町字久保宿のように岩槻町の小字となった。その後、町村制施行により岩槻町と太田町が合併し、新たに岩槻町となった。これにより(旧)岩槻町は(新)岩槻町の大字岩槻となった。

しかし、角川日本地名大辞典の小字一覧には、岩槻町の小字として「東原地、府内、西原地」のみが挙げられている。また、昭和31年発行の地理院地図には岩槻城下町の中心に当たる場所に「府内」とだけ書かれている。

府内の名は現町名にも使われているが、そもそも府内とはどういう意味だろうか。城を城下町ごと囲む土塁のことを大構(おおがまえ)といい、その内部を府内と呼ぶようだ。そうすると、岩槻九町も府内にあったわけだから、すべて字府内に統合されてしまったのだろうか。

その答えは今のところ明らかでない。岩槻城下町の中心付近で小字付きの旧地名が見つかればわかるのだが、そのあたりは住居表示実施が1965年(昭和40年)〜1966年(昭和41年)と古く、唯一見つかったのが「岩槻市」のあとにすぐ地番が書かれた表札だけであった。

しかし、岩槻城下町の周辺部については1988年(昭和63年)〜1989年(平成元年)と比較的新しく住居表示実施された区域がある。そのような区域の一つである府内一丁目で字府内を発見した。「大字岩槻」が省略されており、一見現町名と見分けが付きづらいが、丁目の記載がないのと地番表示であることから旧地名であることがわかる。ちなみに城町一丁目でも「岩槻市字府内」と書かれた表札を見つけており、ここでも大字岩槻が省略されている。

このように字府内は現物で見つかるのだが、岩槻九町の名を引き継いだ小字は見つからない。やはり府内の小字はすべて字府内に統合されてしまったのだろうか。それとも府内のうち岩槻九町のエリアはそれぞれの町から引き継いだ小字が付けられ、それ以外の区域が字府内となったのだろうか。

もし前者だとしたら、地租改正の際に小字が整理統合されたことによると考えられる。そうすると、岩槻の旧町名を無くしたのは住居表示ではなく地租改正ということになるのではないだろうか。

(2020/06/28 追記)岩槻町の中心区域は地租改正後に字府内一・府内二になったようだ。