富士見市大字水子字前沼


発見日:‎2016‎年12月30日
発見場所:富士見市谷東二丁目付近

谷東富士見市の南部にある地域であり、南端で志木市と接している。ここも高橋地区と同様に市の境界が入り組んでいる。このように境界が川の流路と一致しないのは、柳瀬川の改修工事で流路が変わったというのもあるが、他にも理由があるようだ。

ここに「市民大学 郷土富士見検定解説講座 水谷東地区について」という資料がある。当地区の歴史や変遷が書かれており非常に面白い。たとえば、こんなことが書いてある。

3.水谷東の生活圏・一体感
(1)水谷東は当初から志木圏の一環として開発された。
(2)日常の買物、水道も志木、電話も志木局、学校も初期は大半が志木に越境入学。
(3)志木とのあらゆる面において大きな格差を身をもって体験。
(4)富士見市の場末(辺境意識)と一体となって住民運動を昂揚させていく必然性が

辺境意識って。まあとにかく志木市と関連が深い地域なのである。そして「5.志木市との境界変更」を見てもらいたい。まず、「(1)志木市役所一帯の敷地と境界線」についてである。志木市は1970年(昭和45年)に足立町が市制施行して成立するのだが、その後市庁舎の建設が始まる。しかし市庁舎が建った場所の大半は富士見町(当時)の町域内だったので、当時の富士見町の住民は「わが町に隣町の市役所ができた」と驚いたそうである。その後、市域を同面積で交換し、市庁舎の住所は志木市中宗岡一丁目1番1号となった。

もう一つの出来事は「(2)味場地区の境界変更」である。これは私もこの資料を見るまで知らなかった。先にも書いたように、水谷東地区は志木市と関連が深い地域であり、辺境意識もあいまって志木への編入運動が起こっていた。さらに間近に市役所ができたりするものだから、いよいよ運動は盛んになったに違いない。それで資料に書かれているように、富士見市は一地区をごっそり志木市に提供してしまうのである。

ちなみにこの提供された地区であるが、今回の旧地名を発見した水谷東二丁目のすぐ南にある。その付近に行ってみると、富士見市側の町内会と志木市側の町内会が一体となって運営されているのがわかる。なにせ境界が入り組んでいるため、一体運営せざるを得ないのであろう。近くの公園の看板も「富士見市」と「志木市」が連名になっていてほほえましい。

そしてこの志木市に提供された地区およびその対岸のもともと志木市域内にあった地区が味場地区である。小字名一覧などで名前は知っていたが、現在も町内会として名前が残っていたとは感慨深い。

長々と書いてきたが、その水谷東地区で今回の地名を発見した。しかし実は大字水子字前沼は現在も隣接区域に残っている地名である。すぐ近くにある富士見みずほ幼稚園の住所は字前沼となっているし、おそらく前沼公園もそうであろう。しかし、「小字については発見した場所で消滅していれば紹介できる」という本ブログのルールにより、紹介させてもらった次第である。