川越市大字南大塚字稲荷久保


発見日:‎2018年4月28日
発見場所:川越市大塚新町付近

今回の旧地名を発見した大塚新町は、西武新宿線南大塚駅から北東に少し行った線路沿いに位置している。区域のほとんどは線路の南側だが、なぜか一部だけ北側にはみ出している。大塚新町の名前は大塚新田から取ったと思われるが、実際は大字大塚新田と大字南大塚が入り乱れて存在しており、今回の旧地名は大字南大塚のものである。

小字名の稲荷久保であるが、大塚新田のほうには稲荷窪という小字があり、隣接して位置していた。これと同じような例として、南大塚では字四ツ谷なのが大塚新田では字四都野となっていたりする。元は同じ地名だったのが、文字で記録する際に村ごとに別の字を当てたのだろう。

稲荷久保の稲荷は稲荷神社から来ていると思われる。大塚一丁目に窪稲荷神社というのがあるが、これは元は大塚新田字稲荷窪に存在した。窪稲荷神社があるから字稲荷窪というよりは、字稲荷窪にあるから窪稲荷神社と呼ばれるようになったというのが正しいようだ。

大塚という地名は古墳と関係がある。塚とは土を小高く盛った墓のことで、古墳はそれが遺跡となったものである。実際このあたりには南大塚古墳群が存在する。そして墓を見守る稲荷神がこの地に祀られていたから稲荷久保(窪)と呼ばれるようになったのではなかろうか。

ちなみに南大塚、大塚新田だけでなく、隣接する大字脇田にも字稲荷窪町という小字があった。なぜ町が付いているかというと、以下のような事情による。江戸時代、川越城下町の発達にともない、隣接する郷村地域にまで町が広がっていった。脇田村にはかつて猪鼻町、堺町などの町があったが、地租改正の際にこれらの町名のいくつかは小字に引き継がれ、字猪鼻町などとなった。一方、農村部については字西原畦、字稲荷窪畦のように「畦」の字が付けられたが、これを「マチ」と読ませたようだ。その後、畦は町に統一され、大字脇田の小字となったという訳である。